本鳥山 勝徳寺について
沿革
遠州浜松 井上越後守義勝の一族 伊砂民部大輔 源勝行は、
源実朝が鎌倉鶴岡八幡にて殺害されたとき、下総国香取郡霞ヶ浦に逃れ、
承久元年(1219)雨月上院の五日、常州(常陸の国)稲田の郷にて善信御坊(親鸞聖人)の弟子となり、行応と名を改める。
その後、6世善念が応仁元年(1467)信州荒瀬原に居住し、伊砂の姓を捨て、土地の名称が平出の郷であることから姓を平出と改める。
延徳3年(1491)本願寺8世蓮如上人より「本鳥山」の山号と「勝徳寺」の寺号、並びに直筆の六字名号本尊を賜り、一寺を建立する。
※「本鳥山(ほんちょうざん)」の山号は信州牟礼平出村の近くにある「髻山(もとどりやま)」より
これをもって本鳥山 勝徳寺の開山とする。
天正19年(1590)、9世慶俊ときに越後の国板倉の郷中島(現在の上越市板倉区南中島)に移るが、
慶長2年(1597)4月14日、10世慶安のときに関川が大洪水となり中島もその被害に遇う。
それにより、その年の5月2日に現在の地、吉木の性善寺という寺に非難し移り住む。
※(性善寺は真言宗にて住職は日敬僧正といい、山寺三千坊の寺にして、光明寺・福王寺・観音寺を司る)
11世了念は日敬僧正と共に居住していたが、日敬は慶長11年(1607)性善寺境内・本堂を了念に与え死去する。
性善寺・勝徳寺の門徒合わせて536軒、本堂は7間に9間、庫裏は6間に12間の大きさであった。
その後、22世智眼のとき明治24年(1892)3月17日夜、吉木の村の大火により本堂が焼失。
明治29年(1897)にご門徒の方々の熱意により、10間四面の大伽藍である現在の本堂が再建された。
現在の住職は25世智海である。
法物など
「十二光仏光明名号本尊」
親鸞聖人より賜ったとされる十字名号。
十二光仏とは阿弥陀仏のすべてのものを照らし摂め取るはたらき、光明の徳を示すもので、
無量寿仏・無辺光仏・無碍光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智慧光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏をいう。
十二の仏を添えた名号は十字名号の他には見あたらず、しかも現存するのは越後・信濃・越中に限られているそうです。
「六字名号」
蓮如上人より山号・寺号とともに賜ったとされる直筆の六字名号。
「五輪の塔」
かつて親鸞聖人の妻である恵信尼さまのものではないかとされた。
「本堂襖絵」
明治24年の火災により焼失した旧本堂にはまっていたとされる襖絵。
それまで何が描かれているか構図すらわからない状態のものを平成21年(2009)に修復。
鳳凰と孔雀が描かれている。